北見に初めて住みついた和人

 明治十九(一八八六)年のこと,東京から杉村という人が今の北見市のあたり へやってきました。 もちろんそのころこのあたりは,ほとんど人の姿の見あたらない森と原野で した。 杉村は,高価な毛皮のとれるテンという動物や,ワシといった大きな鳥を狩猟する ために,人を雇ってここまでやってきたのでした。 よほど大がかりに金もうけをしようとしたらしく,日高や胆振(いぶり),有珠 (うす)といったところから,アイヌの人たち十人も雇ってきたのです。 このアイヌたちにはそれぞれ出身地ごとにグループをつくり,隊長を決めました。 その隊長は,日高沙流(さる)のエレコーク,胆振鵡川(むかわ)のヌシヤアンクル,有珠の トマムカといいました。  わずかなアイヌしか住んでいないと思われていたこの北見のあたりにも,実は 一人の和人が住んでおりました。 その人は志村金策といい,家族のことはわかりません。 杉村の一行がこの地方に狩猟に入ってくると,金策はたのまれて,猟のできそ うなところへ彼らを案内することになりました。 けれど,シカやキツネ,クマなどの獲物が多くて,高価なテンやワシなどはあまりとれませ んでした。  杉村は,数年間北見地方やときには海岸へまで行って狩猟をしましたが,やが て用のなくなったアイヌたちを置いたまま,自分だけさっさと東京へ引きあげて しまいました。 このころ,こうした身勝手な和人は少なくなかったのです。 置いていかれたアイヌたちのほぼ半分は苦労して故郷の日高や胆振へ帰りまし たが,あとの人たちは北見地方に残って,狩猟をして暮らしました。  ところで,早くから北見地方に住みついていた志村金策という和人は,粛永 六(一八五三)年,山梨県に生まれたということはわかっているのですが,どう いう目的で北海道へ渡り,和人のいない北見地方へまできて住みついたのか, それがいつのことなのか,どういう経歴をもった人なのか,ということはほと んどわかっていません。 ただ,杉村たちの狩猟の案内をしたということから,このあたりの山野の地 理にくわしかった筈であり,相当早くから北見地方に住みついていたと思わ れます。 この地にいちばん早く住みついた和人だったかもしれません。 それにしても,何をして暮らしていたのでしょうか。  明治二十二(一八八九)年の初夏のこと,網走と北海道の中央とを結ぶ大事な 道路(中央道路といいました)を作るために,測量の技師が今の北見市のあたり までやってきました。 当時はまだ和人など住んでいないだろうと思われていたそこオンネメームに,秋田 県出身の菅原兵蔵という人が住んでいました。 兵蔵は狩猟をしたり馬を育てたりしていたといいます。  測量技師たちは,菅原兵蔵という和人に会ってホッとしましたし,色々話をす るうち,兵蔵がこのあたりに住みついたいちばん古い和人だろうと思いました。 そして不思議なことに,志村金策のことは目にとまらなかったようです。 金策は長期間の狩猟にでも行っていたのでしょうか。  明治二十四へ一八九一)年に,網走から北見をへて,丸瀬布から北見峠に至る 道路が開かれました。 そのすぐ後に志村金策は,野付牛村オンネメームというところに商店を開いてい ます。 それは今の北見市本町あたりかと想像されますが,商店とはいっても,ア イヌの持ってくる毛皮やシカの角などと雑貨を交換する,ささやかな商売にすぎ ませんでした。 できてまもない道路を,ごくたまに通っていく人がいたかもしれません。 そうした旅の人が,店で何かを求めていくこともあったでしょう。 道路が開通した翌明治二十五へ一八九二)年に,道路沿いに駅逓(えきてい)と いうものが置かれました。 駅逓は,旅をする人や馬が泊まったり,荷物を輸送したり中継したりする大切 な施設でした。 網走の方からかぞえて二号駅逓は端野の緋牛内(ひうしない)に,三号駅逓は 東相内に建てられました。 そして三号駅逓の取扱人には菅原兵蔵がなりました。  そのころ,オンネメームにいた志村金策も東相内に移ってきて,三号駅逓の道路向 かいに商店をかまえました。 このころも,もっぱらアイヌ相手の商売だったそうです。  今の北見市の地域に人々が住みついたのは,開拓移民団北光社の人々や,屯田 兵とその家族たちが最初であるとふつういわれています。 しかしそれは,本格的な開拓のはじまりをさしているのであって,それより十 年も前から住みついていた,志村金策とか菅原兵蔵といった和人がおりました。 そして,もっとはるかに以前からアイヌ(アイヌの言葉で人間という意味)という人々 がこの地に暮らしていたのです。                               (菅原政雄)