囚人道路

 北見市のとなりの端野町に,緋牛内(ひうしない)という地区があります。 ここには地元の人々に大切に守られている「鎖塚」と呼ばれるお基があるのです。 お墓といっても小さな土の山が三つと,石碑,お地蔵さんがあるばかりです。  毎年お盆の頃には「鎖塚保存会」という会の人たちや,町の人々がお参りにや ってきます。 そして,時々は本州の高校生などが北海道に修学旅行に来たときに,鎖塚に立 ち寄ります。 そういうときには「保存会」のおじさんが,どうしてこのお墓が「鎖塚」と呼ばれ るようになったのかというお話をしてあげます。  それはこういうお話です。  「みなさんこんにちは。北海道の旅行は楽しいですか。道路も広くてまっす ぐで快適だったでしょう。でもみなさんが今日とおってきた道路は,むかし, 中央道路といわれていましたが,もうひとつ別に囚人道路とも呼ばれていたの です。」  今から100年ほど前に北光社という開拓団体や屯田兵が,今の北見市や訓子 府町,端野町にやってきましたが,それまでこのあたりには,ほんのわずかなア イヌの人たちしか住んでいませんでした。  それでは,北光社の人たち,屯田兵やその家族たちは,網走からの陸路,道ら しい道もない原始林のなかをかきわけて北見の地まで来たのでしょうか。 実は屯田兵たちが来る前に,すでに道路がつくられていたのです。 その道路をつくったのが,網走に置かれた集治監(しゅうちかん,刑務所)の 囚人たちでした。 そして厳しい工事のためにたくさんの犠牲者が出たのです。 「鎖塚」はそのときに亡くなった囚人が埋められていたところだと伝えられ ています。  この工事は,屯田兵たちが移住してくる六年前の明治三十四(一八九一)年に 行われました。 工事の区間は,今の網走市から,網走湖の北側をとおって端野町、北見市,留辺 薬町,佐呂間町,生田原町,遠軽町,丸瀬布町,そして白滝村の北見峠までの約161 キロメートルでした。 しかもその半ばが厳しい山道という難所のあるなかを,その年のうちに完成しろ, という北海道長官の命令でした。 これは,ふつう道路をつくるのに必要な仕事量の,実に四倍を超える厳しいもの でした。  工事には1500人もの囚人があてられましたが,そのころは今のような工事 のための機械や,トラック,ブルドーザーなどもちろんありません。 すべてクワ、スコップ,ツルハシ,モッコなどを使った手仕事です。 こうして,うっそうとした森林の中に毎日毎日,雨の日も休むことなく道路を つくっていきます。 雪の来る前に工事を完成させなければなりませんから,囚人たちは朝は三時に 起こされ夜は七時,時にはタイマツをともしてさらに遅くまで働かせられました。 食料や栄養も不足していました。 逃げようにも足には重い鉄の鎖がつけられ,まわりは深い森林で逃げることも できません。 ワタのように疲れはてた囚人たちの中から,たくさんのけが人や病人が出たのは 当然のことでした。 十二月,工事が終わるまでに,200人以上もの囚人たちが病気や事故で死ん でいったといわれています。  おじさんの話は続きます。  「囚人といっても,今の法律では罪にもならない人たちがたくさんいました。 そして私たちの町ができたのは,なによりもこの囚人の人たちが道路をつくって くれたからなのです」  「みなさんが今まで通ってきた道路や,これから通る道路には所どころに鎖塚 のような囚人の供養碑がたっています。これは囚人の霊をなぐさめ,感謝の気持 ちをこめて建てられたものなのです」  おじさんの話は終わりました。  高校生たちは深々とおじぎをして鎖塚に花を捧げ,また楽しい修学旅行に旅立 っていきました。                            (大橋秀規)