小学校の思い出

 わたしは,明治四十二(1909)年四月に野付牛尋常高等小学校に入学しま した。  わたしが生まれる前のことですが,この地に移住して来た人々は,なんとして も子どもたちに教育をと考えて,土佐移民の北光社や屯田兵の第一陣が入ってき た明治三十(1897)年,ただちに,人を頼んで寺小屋式の教授所を開いたのでした。 もちろん正式の学校ではありませんが,これが今の北見市での初めての教育施 設です。 先生は田中謙吉,教室は平野鈴太郎という人の家,児童は十人余りだったそうで す。 その後教授所は,大通り東七丁目の大谷派本願寺説教所(今の本覚寺)に移った ということです。  明治三十(1897)年に第二次の屯田兵とその家族が入植し,戸数も人口も増え てくると,いよいよ子どもの教育施設の必要性が強く叫ばれるようになって,大 通り西六丁目(今のハッカ記念館あたり)に,屯田兵第四大隊本部の手で野付牛 中央尋常小学校という正規の学校が生まれることになりました。  わたしがその学校に入学したのは,開校から十一年もたっていましたから,学  校も少し様子が変わっています。 子どもの数もどんどん増えていましたし,高等科という課程もできました。 子どもの増えかたが激しくて,三年生以下の低学年は,午前と午後に分けられ る二部授業ということもありました。  わたしたちのころは,特に低学年のころはノートというものがありませんでし た。 何を使ったかというと,粘板岩という石の薄い板に木の枠(わく)をつけた石盤 いうものに,石筆(せきひつ)という石で,字や絵を書きました。  勉強は「読み,書き,ソロバン」が中心でした。 読本(どくほん,国語教科書)などを大きな声でスラスラ読めること,文字や文を 書けること,ソロバンができることが学習の目的だったのです。 ソロバンは五つ珠(たま)といって,今のソロバンより下の珠が一つ多いのです。 割り算の九九というのもありました。「ニ一天作の五」「三一 三一」「三二 六 二」といったもので,今では何のことかけんとうもつかないでしよう(興味のあ る人は調べてみて下さい)。  開拓が始まった当時は,学校へ行けるというのは恵まれた人でした。 今では想像もつかないでしょうが,家が貧しくて,また家の手伝いのために,勉 強したくても学校へ行けない人がいたのです。 ですから,大人でも字の読めない人が少なくありませんでした。 わたしたちは学校へ行けることをしあわせに思って,うれしく,楽しく学校に 通いました。 わたしの場合は,まだ六歳の一年生の時から,三輪の家を朝早く出て,四キロ もの道を,風呂敷に本や学用品を包んで,たすきがけに背おって,毎日ぞうりや 下駄はきでよく通ったものだと思います。 冬はわらぐつやツマゴというものをはきました。 そして,雪どけの悪い道の時も,焼けつくような暑い日も休むことはありませ んでした。 学校の帰り吹雪になって,雪の中を泳ぐようにして家にたどりついたこともあ ります。 父か近所のおじさんが馬そりで迎えに来るのに出あった時は,ほんとうにホッ としたものです。  わたしたちの時代は,悪いことをしたり,朝遅刻したりすると,よく立たされ ました。 校庭に大きな柏(かしわ)の木が何本もあって,あとは広い野原にいちめんタン ポポが咲いていました。 秋になるとエゾリスがドングリ(柏の実)を食べに集まってきます。 わたしたちもドングリを拾って,それをころがして遊んだものです。 ある時,始業時間の鐘が鳴ったのも気がつかずドングリころがしをしていて, 先生に叱られ,廊下に立たされた人もありました。  学校の向こうに池田と野付牛を結ぶ鉄道の線路ができて,二年生のころになる と,建設列車がいくつもの台車(屋根のない貨車)を引いて毎日通るようになり ました。 時おり先生は授業を止めて,「そら,汽車が来たぞ。見なさい」と,わたしたちが 見たくてウズウズしている列車を,たっぷりと見せてくれるのでした。 きびしくて,そしておおらかな学校生活でした。 この学校は後に(大正二年)大通り西七丁目,今の市民会館の位置に移り,大 正十一(1922)年から西小学校(野付牛西尋常小学校)となりました。                          〈寺前秀一・小林 正)