鹿とり哀話

   鹿を求めて  屯田兵の現役解除がニヵ月後にせまった明治三十六(1903)年の一月,相内兵 村では農繁期の苦しいしごとから解放されて,乏しく貧しい暮らしでしたが何 かほっとした気分のなかに静かなお正月を迎えていました。  母親たちは久し振りにのんびりと腰を伸ばし,若者たちは仲間と語り合った り友だちの家を訪れてお正月の楽しさをかみしめていました。 一家の親父やお年寄りたちも,家でゆったりとして,草鮭(わらじ)を編んだり 家の中の用をたすことで,やはりお正月の楽しさを味わっていました。 そうした中で,三中隊二区兵村の屯田兵橘丑之助の父忠助は,このお正月の一 日を鹿とりで楽しもうと考え,同じ兵村の林留吉をさそって,正月八日の朝,兵 村を後にしました。 忠助は五十八歳とはいえ,なかなかの元気者でしたし,留吉は二十歳,体力も気 力も充実した若者でした。 二人の出で立ちは,頭に綿を入れた三角帽をかぶり,からだには作業衣の上に 半纏を着,赤ケットで足をしっかり包んで,その上にツマゴ(わらぐつ)を履き, 腰にカンジキ(新雪の上を歩くもの)をぶらさげ,背中には背負子(しょいこ)に 入れた村田銃を斜(はす)に掛けているというものでした。 忠助と留吉のほかにアイヌの川端という人も同行して,中央道路(今の国道三 十九号線)を留辺薬の方向に向かいました。 留辺薬まで来ると,アイヌの川端は佐呂間峠に向かうので二人と別れて行きま した。 忠助と留吉は,左へ折れていよいよ山へ向かいました。 獲物を求めて,緊張と期待に胸をはずませて樹の繁る山をめざし,雪の中をひ と足ひと足踏みしめながら山道を登って行ったのです。  昔,北海道には鹿がたくさんいました。 江戸時代から北海道の鹿は商人がとてもほしがっていたものの一つで,明治時 代に入っても東京には鹿角(ろっかく)問屋というものがあって,仲買人が全道 を回って鹿の角を買い集めていました。  野付牛でも,明治十九(1886)年に東京の杉本という人が,この鹿の角や 鷲(わし)の羽などを求めて,アイヌを引き連れて来ていました。 屯田兵が来てからも,開墾地や周囲の林の中に沢山の鹿の角が落ちていたとい います。 兵村の世話役は,拾い集めた角をとりまとめ,これは思わぬ現金収入になった のでした。  しかし,忠助たちの鹿狩りは角が目的ではありませんでした。狩りそのもの が冬期の楽しみだったのです。 鹿狩りの味をしめた人にとっては,これは最高の楽しみでした。 その肉は不足がちな栄養をおぎなら貴重な蛋白源でもありました。 一家そろって鹿鍋(なべ)を囲む団灘(だんらん)を思うと,村田銃を握る手に も思わず力がこもるのでした。 無加川を渡ると高さ三百メートルほどの丘が広がっています。 このあたりが鹿の生息する地帯でした。 今の留辺楽町から置戸町へ横断する丘陵地帯で,そのてっぺんの平らなあたり が狩りをする人の目標とした所でした。  遭難  忠助と留吉はこの丘陵地を過ぎ,鹿の姿を追って,今の置戸町秋田の方向へ下 りて行きました。 ところが午後二時頃,それまで晴天だった天候は一変したのです。 ちらちら雪が降って来たと思う間もなく,風も加わり,やがて横なぐりの風が 吹きつける大吹雪になってしまいました。  北国の荒れ狂う吹雪は,人間の視覚をうばい,体力をうばい,判断力をまでう ばい尽くします。 突然襲った吹雪に二人は避難場所さえ見つけることが出来ません。 腰までぬかる雪と,息も止まるほどの激しい風に,二人はあえぎあえぎさま よい続けました。 次第に失われていく体力と体温は,恐怖心をかり立て,死ぬのではないかと, 二人の心をいよいよ不安にさせました。  忠助は五十をはるかに越えて,苦しみをなめた経験も多く,しっかりとものを 考えることのできる人です。 冬の鹿狩りも,吹雪の恐ろしさも幾度か経験していて,それに対処する方法も 心得ていたはずでした。 その忠助が「おれは今どこにいるのか分からない」と叫んだほどの恐ろしい状 況になっていました。  吹雪と深い積雪の中を夢遊病者のようにさまよった二人は,日没と同時に歩く ことをやめ,林の中の雪の穴に身をひそめて仮寝をしました。  一夜明けると吹雪も幾分おさまっていましたが,二人の間には,年齢の差から くる体力の違いがはっきりと現れていました。  留吉は,鹿狩りの大先輩である忠助を信頼してついて来たのです。 その忠助がすっかり体力をつかいはたして,「もうおれにはどこがどこだか分か らん。お前は勝手な方へ行ってみろ」という始末です。 もう,気力も判断力もありません。ただ,若い留吉にはまだ歩く体力と気力が 残されていました。  信頼していた忠助から突き放された留吉は,一時呆然となりましたが,このま までは二人とも凍死するしかないと,忠助を残して一人あてもない方向へ歩い て行ったのでした。 残された忠助も,それからしばらく経って最後の気力を振りしぼって歩き出し ました。 その一歩一歩は死闘そのものでした。が,この二人の歩いて行った方向は全く 反対の道をたどっていたのです。  若い留吉は,一刻も早く人家のある所へと,新雪をこいで進んで行きました。 次第に吹雪もおさまり,視界も広がって来たので,積雪一メートルを越す荒雪 を泳ぐようにかき分けて進みました。  どれくらい歩いたか,はっきりとは分かりません。 ふと気づいた時,留吉は川の岸に出ていました。 川幅の広さから,これは常呂川だと,もうろうとした頭にも判断することが出 来ました。 当時常呂川のこのあたりは,アイヌの家が二,三戸あるだけで,それを探し当て ることはとても無理と思われました。 それで留吉は,再び重い足をもと来た方へ運び出したのです。  雪も止んでいたので,自分の足跡をたどることが出来たのは幸いでした。 でも,飲まず食わず,荒雪に膝をうずめての一歩一歩は,若さの持つ体力の限 界を越え,何度も雪の中に倒れたのでした。  それに,空腹にもまして激しい喉の渇きが留吉を襲っていました。 苦痛が全身をかきむしります。 そんな時,留吉は小川を見つけ,はい寄るようにして氷の割れ目に口をつけて 水を飲み込みました。 が,この時留吉はあやまって足を水の中に突っ込んでしまったのでした。  乾かすことも出来ず,夜ともなれば零下二十度を越える寒さです。 濡れた足は板のように凍りつき,体温も急速に奪っていきました。  凍った足を引きずるようになった留吉の歩みはのろのろとして進みません。 ついに留吉はトドマツの倒木の元に半身を埋め,意識を失ってしまいました。   祈る心  兵村の家族たちは,三人が出発してからあと吹雪になったので心配はしていま したが,忠助の豊かな経験を考えると,恐らく適当な所へ避難しているだろうと 思っていたのでした。  ところが,二日経ってももどりません。 家族の中に不安の色が濃くなってきました。 それでも,留辺薬の向こうには温泉小屋(温根湯)があるから,そこで吹雪と寒 さを避けているのではないかと,祈るような気持ちで無事を期待していた のでした。  しかし,五日目になっても二人の元気な姿は現れません。 兵村の人々はついに遭難したのではないかと,立ち上がることになりました。 とりあえず,佐呂間峠から早く帰っていたアイヌの川端と,留吉の弟三郎の二 人が,忠助らのたどったと思われる方向へと向かったのです。 このあたりの地理にくわしい川端は,二人が丘の上の平らなところへ入ったと 推測して,真っ直ぐそこへ向かいました。  やがてかすかな足跡を見つけ,それをたどって行くと,丘の頂上に近く,オン コの大木の根元に,鉄砲の先が新雪をかぶってちょっと出ているのが見えました。 それはまるで,亡くなった人の霊が捜索の二人をまねき寄せるように,白雪の 中の黒点となって,かすかですが遠くからでも見えました。 雪を除けてみると,全身カチカチに凍った忠助が,銃を前に捧げ持つようにして, オンコの木にもたれておりました。 遺体の発見された日が忠助の命日とされましたが,実際はそれ以前に亡くなって いたに違いありません。  そこは,今の国道三十九号線,留辺楽市街から温根湯へと向かう途中の,六号 線というところの真上でした。  二人は忠助の痛々しい死体を発見すると,近くに必ず留吉がいると確信しまし た。 一刻も早く留吉を見つけなければと,忠助の遺体に手を合わせると,すぐ盆 地になっている方へ下っていきました。 今の置戸町秋田というあたりです。  二人は,留吉だけでも生きていてくれと,祈るような気持ちで先を急ぎました。  しかし,盆地は広いうえにたくさんの木が密生していて見通しがききません。二 二人は歩き疲れて山中で火をたいて野宿することにしました。 その野宿した場所は運命のいたずらとでも言おうか,留吉が意識を失って倒れ ている所からほんの少ししか離れていませんでした。  もし留吉がまだはうことでも出来るか,せめて意識がたしかであったなら,こ  の焚き火の明かりを見つけ,二人を呼ぶことが出来たでしよう。 そして,この時発見されていれば,後に死につながることになる凍傷も,軽く てすんだに違いありません。  一夜明けて三郎と川端の二人は,再び捜索に向かいました。 すぐにかすかな足跡が見つけられ,それをたどって,意識を失って倒れている 留吉を発見することが出来ました。  やがて留吉の兄,幸作たちもこの遭難地点へやって来ました。 大男の幸作が留吉を背負い,忠助の遺体は,即製のそりに乗せて,一行は今の 国道三十九号線に下り,温泉小屋(今温根湯温泉)に一泊しました。 が,ほの暗い明かりの下で遺体を見守り,凍傷に苦しむ留吉の手当てで,救援 の一同はまんじりともせず一夜を明かしたのでした。  兵村に帰った忠助の遺体は,村の人々に見守られながら,今の相内,西十六号 線の無加川の堤防の上で焼かれました。  留吉は帰宅後,両脚の凍傷が悪化し,中隊の軍医の手当てを受けましたが,そ の軍医から,両脚切断をする方がよいと言われるほどになってしまいました。 三月末には屯田兵の現役解除に伴って大隊本部は旭川へ引き揚げる。 そうなれば軍医もいなくなり,器具などもなくなるので手術は不可能となる。 手術をするなら今のうちだというので,ついに留吉の両足は,二人の軍医の手 で,膝の少し下から切断されました。  それでも留吉は,傷口が治ると,切り口の箇所に綿を厚く巻き,その上から布 で押さえて,不自由な足で畑仕事もしていたのです。 歩くのは困難でしたから,馬車に乗って収穫物を運んだりしましたが,膝立て の姿勢で麦の一俵くらい地上から馬車の上にかつぎ上げるくらい体力がありま した。 が,やはり無理がたたったのでしょう,病気になって,二十三歳という若さで亡 くなってしまいました。  忠助の橘一家は,後に留辺楽町大富という所へ移住しました。 そこは忠助が遭難した丘の,眼下に広がる原野でした。 忠助の亡き霊は,わが子,わが孫を,ながく丘の上から見守っていたに違いあり ません。                              (鈴木三郎)