松浦武四郎,常呂川をのぼる

 幕府の蝦夷地山川地理取調という役人だった松浦武四郎が,常呂川上流(北 見,訓子府方面)へ向かうために常呂に着いたのは安政五(一八五八)年五月十 三日(今の暦でいうと六月二十三日)でした。 それは,元号が明治になるちょうど十年前のことです。  常呂に着いた武四郎は,前からの知り合いであるアイヌのレイシヤクに案内を頼も うと思っていました。 ところが,レイシヤクはこの春に病死したというのです。 それで途方にくれていますと,レイシヤクの甥(おい)という男が,私も案内人の 一人に加わりましょう,と言ってきたのです。 亡くなる前,レイシヤクが松浦ニシパ(旦那・だんな)という人が来たら,必ず案内して, 山々のことをのこらず話してやってくれ,と言っていたというのです。  常呂(今の常呂市街のあたり)には十戸のアイヌが住んでいました。 そのうち七戸から働き手が宗谷の漁場に強制的に連れ出され,残された家族 はほとんど子どもばかりというありさまでした。  いよいよ舟に乗り,川上へ向かって出発,武四郎と案内人の一行がプトイチャンナイ という所に来ると,そこにはアイヌの家三軒があって,一人の白髪の老人が一行を 出迎え,武四郎を家へ招き入れました。 この老人には妻と子ども八人がいましたが,上から四人の子どもは宗谷の漁場 へ連れていかれ,家には十二,三歳以下の四人の子どもが残っているだけでした。  老人は怒って武四郎に言いました。  「まったくアイヌというものは哀れなものだよ。子どもを産んで育ててみても, ようやく水を汲み新〈まき)を取れるようになると浜へ取られてしまうんだ。 年をとって浜の稼ぎができなくなると山へ返される。わしもこの前まで宗谷 で働かせられていたが,和人からみれば,アイヌより牛や馬のほうがよっぽどま しだと思われている」  老人は話しているうちにますます怒りがつのってきて,ついには武四郎め がけてののしるのでした。  ここの人家三軒のうち,一軒は家族四人すべてが宗谷へ連れていかれ,空き 家になっていました。それも,五年も誰も住んでいませんでしたから,家は くさって柱だけが残っているというありさまでした。 もう一軒でも二人が連れていかれ,女三人だけが住んでいました。  その夜,武四郎は老人の話をよく聞きました。そしてアイヌの作ったチライー(い とう)という魚の汁物をおいしそうに三杯も食べると,老人はようやく機嫌を なおしたのでした。 そしてトンコリ(五弦琴)というアイヌの楽器を持ち出してきて,チカフノホウエ(鳥の鳴 き声の曲)を弾いてくれました。  武四郎が土産(みやげ)に米やたばこを贈ると,老人はお返しにそのトンコリを あげると言い出しました。 武四郎が「それは大事なものだから」と辞退しても「あなたが私の家に泊まる のも,何かのご緑だから」と言ってききません。 そして老人は,「この海岸に住んでいたアイヌたちも,昔はこうした楽器で自分を なぐさめていたものでした。ところが今ではこのような楽器をたのしむ暇もな く,和人の漁場というものができてからというもの,年中働かされるばかりで, つらい生涯を送っているありさまです。この楽器を弾く者がいまは絶えている ことの証(あかし)として,江戸(今の東京)という国にもどられたら,お役人たち に知らせてください」と,悲しそうにつけ加えるのでした。  翌日,常呂川を更に上っていくと,チュウシというところに五軒,ヌツケシに三軒,ノヤサン オマナイに三軒,ベテウコヒに四軒と,四か所に分かれて人家十五軒がありました。 が,どの家も働き手が連れていかれていて,残されているのは,やはり老人や 子どもばかりでした。 そのころの和人による戸籍調査では六十九人いることになっているのに,半分 以下の三十人しかいないのです。 そして,上流に上れば上るほど飢えが深刻になっていました。  アイヌの人家五軒があったチュウシコタンは,常呂川と仁頃川の合流点を少し上った, 今の端野町忠志という所にありましたが,ここでも十六名もの人々が,宗谷方面 へ強制的に連れていかれ,働かされていると聞かされました。 武四郎はここへ来るまでに見てきたどこよりもみじめなアイヌの姿に接して,心 を痛めました。 ある家では残された老夫婦が川の雑魚(ざこ)をとって,それを食べてようやく 生きているというありさまでした。 またある家では,九十歳の老人が武四郎を見ると,「今年のように川に魚がいな くては,もう死ぬしかない」と言って,さめざめと泣くのでした。 武四郎はそれを見て,なぐさめる言葉さえありませんでした。  更に四キロほど上るとヌツケシコタンという所に着きました。このヌツケシというのは, アイヌ語で野の端という意味で,端野町と野付牛町(今の北見市)の名の起こりと なった所です。 ここにはわずか三軒の人家しかなく,男は宗谷へ連れていかれ,女の子二人だ けで暮らしている家や,病気の老人がただ一人で暮らしている家もありました。  ヌツケシを出て南へ向かって行くと,やがてひろびろとした笹原に出ました。 次第に広がる草原を踏み分けて,今の端野町市街に近いあたりまで来ると,ノヤ サンオマナイという所があり,三戸の家がありました。 ここでも男は宗谷や利尻の漁場に取られ,みな母子家庭で,病気の女もおり, 食べるものもなく雑魚をとってやっと生きているありさまでした。  そこへひょっこりと,一人の若者が現れたのです。 武四郎が「誰か」と聞くと,常呂の生まれで,十二歳の時から足寄(あしょろ)や 陸別の山奥で暮らしていたが,けんかをして帰って来たというのです。 武四郎は足寄などのある十勝地方も調査のために歩いたことがありましたから, 十勝川で知り合ったアイヌのことを,元気かどうかたずねました。 すると若者は不思議そうな顔をして武四郎をみつめ,「あなたは,噂に聞いた松 浦ニシパ(ニシパは男性に対する敬称)ではありませんか」と言いました。 そして,和人である武四郎を少しも警戒するようすもなく,十勝の色々なこと や,自分がここまで来た途中のことなどを,くわしく話して聞かせました。  このことから私たちは,アイヌ民族の行動範囲がどんなに広いか,そしてアイヌを 苦しめていた和人のなかで,松浦武四郎がアイヌの理解者として尊敬されていた ことなどをうかがうことができます。  話しているうちに,夜の八時くらいになったので,武四郎一行はここで泊まり ました。 野原にある林の中の家なので,日中は蚊が多くて悩まされましたが,夜がふけ ると一匹もいなくなり,安眠することができました。  翌朝更に川を上って,常呂川と無加川とに分かれるあたり,ベテウコヒに達し ました。 今の中の島公園付近一帯で,ここには人家が四軒ありました。 ここでも ある家は家族六人中四人も強制労働のために連れていかれ,そのう ち二人は宗谷で病死し,あとの二人も昨年から利尻へ行ったきり,なんの知らせ もないということでした。 ほかの家も,女,幼児,老人ばかりでした。  武四郎はこのあと,この地のアイヌの助言で,無加川沿いにクンネマクンベツ(今の北見 市西十号線付近)まで行き,ここで昼食をとってから,訓子府川沿いに東へ向か い,クンネフ(今の北光付近)に出ました。 ここから更に常呂川に沿ってシャリキシナイ(今の北見市開成の入口付近)に達しま した。 一行は更にクッタルベシべ(今の訓子府町日の出,オロムシ川の川口付近)まで行き,人家 はありませんでしたが,ここで泊まりました。 そして,ここから先のことはアイヌから聞いてくわしく記録し,ここを最後に引き 上げました。  このように,松浦武四郎が常呂川をのぼりながら見たものは,支配者となった  和人による,アイヌの無惨(むざん)な実情と民族衰亡の姿でした。              〈菅原政雄)