態と格闘するラウヌク

 ノツケウシコタン(おさ)キムンショカには四人の子どもがいて,長男はラウ ヌクといいます。 ラウヌクはこの地に屯田兵が入ってきた時,三十歳になっていました。 頭もよく,力もあって,この地方の地理にくわしく,ですからおとずれる和人の 案内役もし,毛皮などを集めて和人と取り引きもしていたようです。 熊とりの名人という評判もありました。 父のあとを継いでコタンの長となったラウヌクは,常呂川水系をくまなく歩き まわる活動的な男で,コタンのある今の端野町から留辺薬町や置戸町方面にかけ てが,その勢力の範囲でした。  明治三十一(一八九八)年のこと,野付牛(今の北見市)の国沢喜右衛門とい う人が,留辺薬の四号駅逓でお湯のわき出るところがあるという話を聞きまし た。 行ってみるとアイヌの狩猟小屋があって,そのそばに板でかこった浴槽が作ら れていました。 聞くとそれは,ラウヌクというアイヌのものだというのです。 これが温根湯温泉のはじまりですが,ラウヌクの行動範囲の広さをうかがわ せる話です。  そのラウヌクが,ある日の朝早く,アイヌ大二頭を連れて狩猟小屋の裏山の沢 にイタチのわなを見に行きました。 途中,腐った大木が横倒しになっていて,そこにトクサが生え,タラの木が茂り, ブドウのつるがからみついて,それを超えるのに苦労しました。  二頭の犬はさすがに身軽にとび越えましたが,ラウヌクはやっと腐れ木の上に 立つことができました。 ふと見ると,少し向こうに熊の通った跡があります。 熊はブルドーザーのようにやぶを踏み倒して行くので荒々しい道ができるので す。 ラウヌクにはその道がいつつけられたのか,ひと目でわかりました。 二頭の犬も,熊が近くにいることに気づいています。 よく訓練された犬ですから,注意深く熊の背後にまわって行きました。 ラウヌクも注意深く,やぶの茂みの少ない場所を選んで,そこで熊と勝負をし ようと考えました。 犬を使って巧みにそこへおびき寄せようというのです。 ラウヌクは犬に声をかけました。 二頭の犬は熊に向かってほえ,すばやく熊の足にかみつきます。 ラウヌクは足もとや周囲の気配をよく見ながら,しかし落ち着きはらっていま した。 そこへ一頭の大きな熊がとび出してきました。 ラウヌクはさっとタシロ(40センチくらいのアイヌの小刀)を構えます。 熊はラウヌクを襲おうと,前足をあげ後足で立ちあがりました。 ラウヌクの背たけの二倍以上もありそうです。 その胸へラウヌクは体当たりするように突っ込んで行きました。 と思った次の瞬間,熊のわきをすり抜けて後ろに立っています。 後ろに向きを返した熊の脇腹から血が吹き出しました。 すり抜ける時のひと突きが熊の急所をえぐっていたのです。 しかし,ひと突きくらいで倒れる熊ではありません。 むしろ手負いになってからが熊の恐ろしいところなのです。 熊は用心深く頭をさげてラウヌクに迫りました。 その足に二頭の犬が激しくかみつきます。 熊が大の方へきばを向けた瞬間,ラウヌクはとび込んで熊の胸を突き刺し, 確かな手ごたえがありました。 が,この時,熊の振り向きざまの一撃をあとから肩にかけて受けてしまった のです。 はずみをくらって三メートルあまりも離れたやぶの中に投げつけられ,その うえ立ち木にいやというほど頭をうちつけて,ラウヌクは気を失ってしまいま した。  それから一時間ほどたって,血まみれになったアイヌ大の一頭が,狩猟小屋に たどりつきました。 その異様なほえ方に,妻のサキは何が起こったのかを直感しました。  サキを案内して行く犬は,途中で倒れて動かなくなりました。 サキは血の跡をたどりながらなおしばらく行くと,大きな熊が倒れており ,その喉ぶえにかみついたままもう一頭のアイヌ犬が死んでいました。 そこにラウヌクはいませんでしたが,少し離れたやぶの中に失神しているのが すぐ見つかりました。  熊はめったに見られない大物でしたが,ラウヌクの確かな腕はその急所をはず してはいませんでした。 しかしその彼も,あぶないところを愛犬の必死の働きに助けられたのです。  ラウヌクの小屋の近くに熊の頭骸骨を祇(まつ)った祭壇があります。 この時の熊もまつられましたが,それはひときわ目立つ大きなものでした。  この時のことを,ラウヌクはあまり多くを語りませんでした。 が,傷あとはいつまでも激しい格闘のことを思い出させました。 そしてラウヌクの子どもたちはみな,勇気があって機敏な父のことを誇らしく 思っていました。 長男の喜太郎は,このことを自慢話として学校の友達に話してきかせるのでし た。                          (中沢 広)