古老を囲んでの炉辺談話 昭和29年8月26日収録 北見市史初版より



北海道にわたる
明治28年盛夏、土佐の先輩、沢本楠弥、前田駒次らの北海道視察報告会で、わが国の宝庫であることや開拓の有望なこと、道東地区でも特に野付牛の素晴らしいこと、無加川を中心の訓子府9号線付近(現在の上常呂中学付近)から展望した一帯の現地の様子を伝えて青春の血は燃えた。
そして幾晩も眠られぬ日が続いた。
当時の北海道は世間一般には、熊とアイヌの住む極寒の地で、ただ重罪人が流される所と伝えられ、朝の寒さに「おはよう」という挨拶がそのまま凍り、春になるとそれがとけて、あちらこちらから「おはよう」、「おはよう」という声が窓を開ける度ごとに聞こえてくるとか、小便するとすぐ凍って、金槌で叩かねば離れないということまで本当だと内地では信じている頃だったので、親類の人たちまで心配の余り、かわるがわる何も悪い事してないのにそんなところへ行かなくても・・と、真剣に止めに来たが、明治29年8月、沢本楠弥がまず入地し、大谷清虎は北村権蔵他11名と共に、小作人のために小屋掛けをしていることを承知しての決心だからと断った。



当時、青年の気風として「小雀何ぞ大鵬の志を知らんや」とか「骨を埋むる豈墳墓の地ならんや」と叫んでいたが、いよいよ出発となると志士的気迫も何処やら、何となく恐ろしさや悲しさがこみあげてくる。
第一陣のこうよう丸は明治30年4月21日、朝霧の中を720トンの船体にこれら移住者をのせて思い出多い土佐を後にした。
船は高知の浦戸に出て積荷をし、高岡では土佐移民112戸がまとまり、米、味噌、農具、その他日用品を満載した。途中徳島へ寄港したが中に麻疹(麻疹)患者が発生し船内全部にうつり30名もの死亡者を出して悲観にくれた。
馬関(下関)にいたる佐田の岬では海が荒れ玄界灘では7日間揺れ通しの航海をしてやっと小樽に入って給水する間の一昼夜を休んだ。
さらに小樽から冷気肌にしみ、波が荒く潮の早い宗谷海峡の宗谷岬を経て、目的の北見が見える見えるとかわるがわるに甲板上に出ては喜びあった。
こうして枝幸までたどり着いたときだった。望遠鏡を片手に船長は叫んだ「流氷があって航行不能」と。
やむなく、枝幸港に5日間停泊することになった。
その間に時化が来ると避難港がないため礼文島の鬼脇まで避難することもあった。 流氷のために三度引き返し、四度目にやっと通ることが出来た。宗谷から北見への航行中、急に船がローリングを始めた。
みんな真っ青になった。流氷のため船が難破したのだと思い、夢中になってあちこち走りまわった。ブクブク泡が海面に立った。二十間から三十間の前方に傘を逆さにしたように、ポッカリと親子連れの鯨が浮かんだ。
ガリバー旅行記のそれのように。網走に着いたのは5月7日のことである。



北光社農場入地とその頃
5月7日上陸した人々の目に映ったものは、鬱蒼とした大密林と背よりも高い熊笹、身丈よりも大きいと思われる野生のふきであった。山々にはまだ雪が残っていて南の土佐から来た人々にはただ驚くことばかりであった。
港網走といっても、名ばかりの小さな漁師町で、道路は浜と同じ砂原続きでザクザクのひどい砂浜であった。歩くにすら閉口した。
 糧を運ぶにも重荷のため一足一足めり込んでしまい、想像してもいないことで上陸第一歩から一同は苦労し始めた。
 休む暇もなく、草原の道を行進し始めた。
 四里半ごとに駅逓があって小休止できたが、子供を背負い、僅かな荷物や夜具を両手に下げての歩行。
 網走からはこの駅逓の一号二号に泊まった。
 宿といっても馬糞のあるところに泊まったものだから・・・。
 駅逓の一号は、かた山から四里半、二号は端野神社の所。
 人気のない草原地帯と密林地帯を相内に三号、留辺蕊あたりに四号があると伝えられる頃でこの辺一帯をヌプウンケシといい、試験場のあたりに三十戸余り、大きなノコで挽いた板を打ちつけた家が散在していた。
 無加川以西は訓子府原野と呼ぶ人もいたが、後にいたっては18号を限って西を訓子府とし、以東を上常呂といい、現在の上常呂のあたりは上常呂原野とも北光社とも呼んでいた。
 勝山まではアイヌだけでシャモ(和人)は一人もいなかった。



 この草原と密林一帯567万坪は片岡健吉、西原清東、傍土定吉、沢本楠弥、前田駒次らの経営しようとする北の光農場(北光社)と呼ばれ、別に大谷清虎、馬場正吉の61万坪があった。
 「ここだ!」といわれて家族一同「父ちゃん」といって泣き出した。
 それから幾日かしてこの北光社へ一同がたどり着きやっと心が落ちついてきた。「この大自然と取り組んであくまでやり抜くぞ」という気持ちがわき上がった。
 ここが夢に描いた移住の地、憧憬の地であったのだから。
 疲れを休める暇もなく、すぐ入るべき家を造らねばならぬ。二間に三間のホッタテ小屋、屋根も壁も野草や木の皮でふいた拝み小屋同様のもので、大きなノコで挽いた板や割板を使用したのは秋もだいぶん寒くなってきてからのことである。
 出発の時は多少でも開墾地のあるところをとの条件であったが、来てみればまったくの草原と密林でその困苦は一通りではない。
 一抱えも二抱えもある木を倒す経験のない者にはこの仕事も容易なものでなく、切り倒された木は枝とともに積み重ねて火を付け夜どおし燃やした。
 夜空を赤々とてらすたき火は人々を興奮させた。開墾の敵は木だけでなかった。網の目のように根を張る熊笹もまた開拓者を泣かせた。鍬といっても六百匁もある唐鍬一丁だけ。手の豆は次々と破れ、血がにじみ身体は綿のように疲れる。それでも夢中になって働き続けた。



 北光社移民として八割開けば大成功とのことで、各戸とも三分の一を開けば所有権を渡す約束である。出発するときに生活費として金百円を渡されたが、一人分の旅費が九円、夫婦で十八円差引かれ、その残金で食糧の用意、井戸堀賃、小屋掛代とかかるので、ついてまもなく一銭もなくなった。
 事務所には日用品は売っているが貴重な品々で、金のない移住民には高嶺の花でありどうにもならず、食うことがなによりの先決問題であった。
 当時、麦・トーモロコシの計画は全く無く、株間と株間にいくらか蒔いた程度で生活苦を凌ぐべく馬鈴薯少しばかりと、ソバを少々道路近くに植えてその成長を願ったが、草原は土が固くて容易でなく、木のあるところは反当たり70俵もとれたが、縞鼠が沢山いてどうすることもできず、やむなく弓を作って射ち征伐したものである。
 食料に欠乏すれば野生のものをとって、おばゆり、ぜんまい、ふきなど食べられる野草はすべて食べ尽くした。しかし9月になると食べ物は豊富になった。どこにも葡萄やこくわがなった。
 秋が来たと思っているうちにまもなく冬が襲ってくる。家の中ではたき火をぼんぼん燃やして暖をとったが、寒さや雪は遠慮無く押し寄せてきて寝ることもできないまま、夜通し燃やしていることもしばしばあった。この苦しみに耐えかねてか、家族の少ない身軽な者は当時の