血の色にそまったイワケシ山

 むかし常呂に住むアイヌと斜里方面に住むアイヌとの間で,時々勢力あらそいが ありました。 アイヌには「チャランケ」といって,話し合いでものどとを解決する伝統がありますが, 話し合いではついに解決できなくて,戦(いくさ)になってしまったのでした。 そんなわけで,今の常呂町のあたりでは,何十年もの間,絶え間なく小競り合 いが続いておりました。  常呂アイヌは斜里アイヌの攻撃に備えて,今の常呂神社のあるところに第一砦(とり で)を,少し北見市寄りのイワケシ山に第二砦を築きました。 しかし斜里アイヌは常呂アイヌに比べて戦(いくさ)じょうずでしたから,常呂アイヌは 次第しだいに押されて,とうとう斜里アイヌの大軍が第一,第二の砦にまで押し寄 せてきてしまいました。  第一,第二砦とも大激戦を展開して,それは数年にもわたりました。 特に第二砦のイワケシ山は,斜里アイヌのために四方から火を放たれ,ここにたてこも った常呂アイヌは全滅となって砦は陥落してしまいました。 第一砦もまた弓折れ矢尽きて,ついに砦をあげ渡したのでした。 これはアイヌがながく伝えてきた話です。が,このときの戦(いくさ〉に関連して, 「イワケシ悲話」という別の言い伝えもあります。  むかし,常呂アイヌはイワケシ山を霊山として,メノコ(アイヌの女性)の入山を禁じていま した。 そのころ常呂アイヌは斜里アイヌと数十年にわたって戦争をしていました。 斜里アイヌは数千人もの大軍で遠征してきましたから,常呂アイヌはじりじりと後退 しておりました。 常呂アイヌはついに,もうこれ以上しりぞけないと,霊山イワケシに陣を築き,最後の一 戦をいどんだのでした。  斜里アイヌは全山を包囲し,激職を重ねましたから,難攻不落と思われたイワケシ砦 も,とうとう落城寸前に迫ったのでした。  一方,常呂アイヌの勇者カークモニに恋している斜里アイヌのピリカ(美人),クロスイランマがい ました。二人はかわいそうに敵同士だったのです。  ランマはイワケシ砦落城の直前,カークにひと目会いたいと,女人禁制の霊山イワケシに駆 け登り,カーク,カークと呼びまわりました。 するとたちまち山神の怒りにふれ,全山火の海となって,敵味方ことごとく焼 き殺されてしまいました。 兵士たちの血は全山の土に浸みついて赤土となり,骨や肉は赤石となり,カーク とランマは大きな石の塊(かたまり)となりました。 それ以来,イワケシ山は赤い山となったのです。  カークとランマニ人の霊は,ボント(サロマ湖の旧い糊口付近)へ飛び,さらに他の兵士た ちの霊といっしょに白鳥となって,北の方へ逃れ去ったといいます。  この伝説もこれでおしまいです。  やはりこの戦争のなかでのことと思われますが,「ボラ戦争」という話もありま す。  サロマベツ川の川口あたり(今の浜佐呂間)での冬の戦いで,常呂アイヌはついに矢が 尽きてしまって,川に群がるボラという大きな魚を凍らせて矢の代わりに使った という話です。 斜里アイヌはそのボラを踏みつけて,足元がすべって戦にならず,敗退したという ことになっています。 この話は,網走郷土博物館長だった米村喜与衛とい方が,アイヌから直接聞いた のだそうです。  ただ,アイヌの言い伝えといっても,なかには和人(本州方面から移住してきた 日本人)が勝手に作ったものもあるようです。 現に,やはりこの時の戦いにまつわる恋の悲劇,佐呂間町ピラオロ台の「ピラオロ伝 説」がありますが,これは明らかに和人による作り話です。 まるでアイヌの伝説であるかのように紹介されていますが,これは役場の職員た ちの手で,佐呂間湖観光宣伝用として作られたのです。  阿寒湖のマリモ伝説も和人による作りものだそうです。 一般に,アイヌの悲恋物語で,しかも人物名がでてくるものは,和人の作った疑いが 濃いといわれています。 そういえば,イワケシ山の恋の悲劇にもヒーローとヒロインの名が出てきます。 ほんとうにアイヌの言い伝えだったのでしょうか。                             〈菅原政雄)