北光社の先発隊

 岡村達馬は,土佐(今の高知県)の新荘川沿いの淋しい村に生まれ育ちました。  達馬(たつま)は少年のころから自分の手で立派な家を建ててみたいと思い, 大工さんにあこがれていました。 その技術をもって,いつかは村を出て,大きな世界で仕事をすることを夢みて いたのです。 そして大工さんの弟子(でし)になりました。  そういう大きな目的がありましたから,達馬はどの弟子よりも熱心に技術を 学び,身につけました。  その,まだ弟子の年季(ねんき,修業期間)も明けない達馬の,仕事熱心と自 立心に目をつけた人がおりました。 キリスト教徒で自由民権運動家でもあった坂本直覚という人でした。 この人は幕末の風雲児坂本龍馬の甥(おい)にあたります。  「棟梁(大工の親方)として,北海道へ渡って仕事をしてみる気はないか」  と誘ったのです。 達馬は驚きましたが,それはずっと考えていた夢でしたからすぐに決心はでき ました。  坂本直寛は,北海道の未開の地に,キリストの教えをもとに農民が民主的に自 治をする理想的な農村を建設しようと,合資組合北光社を設立したところでし た。 誘われ,くわしく話を聞いた達馬は,坂本のいう理想的な農村のことはよくわ かりませんでしたが,まだ見ぬ新天地で棟梁として独立できることに強く心を ひかれたのです。  達馬は北光社農場となる,北海道北見国クンネップ原野に移民小屋を建てる先 発隊の一人として海を渡りました。明治二十九(一八九六)年,達馬二十歳の時 のことです。  ヤブを踏み分け,現地に着いた達馬たち大工,木挽(こび)き,人夫といった 人たちは,トコロ川の支流,クンネップ川の岸に,まず草葺きの拝み小屋を建てそこに 寝起きして仕事を始めました。 夏は薮蚊(やぶか)に襲われ,冬になるとひどい寒さと深い雪に悩まされなが ら,北光社移民のための住居や本部の建物,倉庫などを建てていきました。 なにしろ達馬たちの出身地は南国土佐というくらいですから,北海道も北辺 のクンネップ原野の冬の寒さといったら,それはそれは大変なものだったに違いあ りません。  いよいよ北光社移民団がクンネップ原野に到着しました。 それは年明けて明治三十(一八九七)年,五月のことでした。 ムカ川の対岸,中央道路沿いに屯田兵とその家族が移住してきたのは,その年の 六月です。  新開地野付牛(今の北見市)の発展は,とても早いものでした。 ですから北光社移民団の住居を建てたあとも,大工である達馬たちには次か ら次へと仕事がありました。  大通りの東五丁目から東十二丁目あたりにかけて,早くから市街地が生まれ ました。 このあたりには住宅はもちろんのこと,さまざまな商店や,料理屋,そば屋と いった飲食店や,それに役場など公共の建物なども次々と建ちました。 そうしたなかで達馬たち大工さんは忙しい日々を送ることになったわけです。  岡村達馬はまだまだ若い大工の職人でしたが,いっぱしの棟梁のプライドもあ り,いい仕事をしたいといつも心がけていました。 そして,事実,いつも人に感心されるような仕事を残しました。 ですからまた,相手の方から達馬にいい仕事の注文がやってくるというぐあい でもありました。  こうして達馬は,北光社本部をはじめとして,野付牛尋常小学校(今の西小学 校の前身で,常盤町の市民会館の位置にあった),野付牛神社(北見神社の前身), 本覚寺など,開拓期の王だった建造物の工事に関係していきました。 まだ二十代という若さで,棟梁として立派な仕事を残しましたから,この地方 で岡村達馬の名を知らない人はいないほどになりました。  このように達馬は,町づくりの仕事に忙しくなりましたから,北光社移民のた めの仕事を終えるとすぐ市街地に移って,そこで建築業者として岡村組を起こし, 弟子を育て,事業を大きくしていきました。  また,奥さんを女将(おかみ)にして料理屋も営みました。 達馬の郷里である土佐(高知県)は四国にあります。 それで料理屋の屋号を四国屋としました。 それは一条東五丁目にあって,そのころこのあたりは,浮世小路と呼ばれ,町で もいちばんの繁華街だったのです。 明治の終わりから大正の初め,ハッカ景気,雑穀景気のころが浮世小路の最盛期で した。  こうして岡村達馬は,ついにこの北見市から離れることなく,八十四歳の生涯 をこの地で終えたのでした。                              〈菅原政雄)