橋のあったところ

 大和の国(今の奈良県)十津川の人,原鉄次郎は,網走で事業をおこそうと, 釧路の中戸川平太郎という人といっしょに,十七頭の馬を連れて今の北見市 のあたりを通りました。 明治十五(一八八二)年六月のことです。  明治のころ,本州の故郷をはなれ,未開の北海道へ行っていい仕事をし,ひと  旗あげてやろうという人々がおりました。 原鉄次郎という人も,そういった人々の一人だったようです。  彼は釧路から出発しました。 釧路の広々とした湿原から美しい雌阿寒の連峰をめざし,雌阿寒のふもと足寄 から利別川をさかのぼり,置戸を通って今の北見市のあたりへやってきたのです。 そのころ,北見といってもわずかなアイヌのほかは住んでおらず,道もない全くの 原野と森でした。 ですから,もちろんアイヌが道案内をしています。 北海道の原住民であるアイヌたちは,釧路,十勝,北見(今の網走管内)と,広い地域 の地理をよく知っていました。  置戸からは常呂川に沿って北見の方へ下ってきましたが,その途中,今の訓子 府町のケトナイ沢の入口あたりで,たくさんの鹿の角(つの)を見つけました。  これらの角をまとめて本州へ送れば,高いお金で取り引きができると思いまし たから,鉄次郎たちは鹿の角を大量に集め,それぞれの馬に満載して,また今の北 見市の方へ向かって出発しました。 北見市のあたりの低いところは広い湿地でした。 それで,今の夕陽が丘通りの台地へあがって東へ向かって歩きました。 やがて見晴らしのいいところへ出ますと,遠く下の方に常呂川と無加川がキラキラ と光っています。 そしてそのこちら側に,やや広い平地が広がっていました。 それは,農地か馬の放牧地になりそうにも思えましたので,鉄次郎は,「あそこは 何というのか」と聞きますと,「オン・ネメーム」と応えがかえってきました。 そこは,その時から十五年後にたくさんの屯田兵が開拓のために入ってきたあ たりです。  一行は今の夕陽が丘通りに沿うように進んで,今の三楽町の藤学園のあたりを 過ぎました。 そこは低い沢になっていて,川が流れていました。 今では排水溝にしか見えない,あるかないかの小さな流れですが,むかしはけっ こう水量のある川だったのです。 無人の原野が野付牛町(今の北見市)という立派な町になったころでも,この流 れは入馬川と呼ばれ,川の一部は景色のいい池になっておりました。 夏になると今では見られないギンヤンマ(大きくて美しいトンボ)などもとんで,町 の人々はこの池を公園のように楽しんだものです。 鉄次郎がここを通ったのは,それよりずっとずっとむかし,町どころか人の住 んでいないころのことです。  案内のアイヌは,ここをムニンニリウカと言いました。 ムニンニとはアイヌ語で「朽ち木」という意味です。そしてリウカは「橋」です。 きっと,さらにむかし,ここには腐った大木がわたされていたに違いありませ ん。 そしてそれが地名になっていたのです。  さらに進んで行くと,今の野付牛公園のあるあたりに出ました。 ここにも川が流れています。この川はのちに小石川と呼ばれました。 が,案内のアイヌはここをカピサムリウカと言いました。 カピサムは「皮のはげた木」のことで,これもきっと皮のはげてしまった倒木が リウカ(橋)となっていることを示す地名なのでしょうo  一行の旅はさらに今の端野町へと続きます。 その端野町から常呂町へ行く方向にタッニリウカというところがありました。 またもリウカです。タッニはカンパ(樺)の仲間に使われる言葉なので,タッニリウカは 「白樺橋」ということになるのかもしれません。  ところで,リウカ(またはルイカ)は「橋」のことですが,ルイカのルは「道」 イカは「その上」を意味しますので,「その(川)上にある道」つまり「橋」,と いうことになるのではないかと思われます。アイヌの言葉,地名のでき方がわか るような気がしませんか。  さて鉄次郎はノツケウシコタン(ヌツケシコタン)に着いて,そのコタン(集落)のラウヌクという人 の家に泊めてもらいました。 コタンの人々といっても数は少なく,そしてみな貧しかったのですが,長い旅の 途中の鉄次郎一行を,心からもてなしたのでした。  後に原鉄次郎は網走で立派に成功しましたが,ノツケウシコタンで受けたラウヌクたちの, 貧しいけれど心のこもったもてなしを,生涯忘れることはありませんでした。                    (菅原政雄・橋については伊藤公平)