エレコークの道案内

 明治十九(一八八六)年に和人の狩猟を手伝うため,日高,胆振などのアイヌ が雇われて北見地方へ来ました。 数年後,猟が終わるとその何人かがこの地に住みつきましたが,今の置戸町秋 田に住みついたのがヌシヤアンクルとトマム力,置戸町境野に落ち着いたのが エレコークでした。 彼らはみな,出身地ではコタンの長〈おさ)というすぐれた人物でした。  エレコークは日高のコタンの長でしたが,郷里へ帰ることをあきらめて北見 地方に住みつくことにしたのでした。 境野では親子六人の家庭を営んでいたという記録があります。 その後オロムシ(今の訓子府町大谷)に移り,更に今の北見にあたる各所に移り 住んで,移住してきた多くの和人と接触することになりました。 つまり,北見の開拓に入った和人たちは,多かれ少なかれ,直接間接に,先住者 エレコークのお世話になったのです。 和人たちは彼のことを,親しみを込めてエレッコとかイレッコと呼びました。  明治三十四(1901)年のこと,北海道庁は鉄道をどこへ通すかという路線 を決めるため,役人を十勝の池田に派遣しているという連絡を野付牛へ今の北 見)の役場にしてきました。 野付牛の人々としては,是が非でも野付牛に鉄道を通してもらわなければなり ません。 それをお願いする絶好の機会ですから,さっそく北光社の沢本楠弥と前田駒次 を代表として池田へ行ってもらうことにしました。  二人は池田へ行くいちばん近道である訓子府のケトナイ沢から十勝へ抜ける 道を選びましたが,和人でこのけわしい道を案内できる者はおりません。 そこで先住者のエレコークに目がとめられ案内役に選ばれることになりました。  ところが,アイヌ民族の道の進み方には,経験上の知恵から,独特のものがあ りました。 十勝へ行くには地図によれば南東に向かってひとすじに行くべきなのに,エレ コークは時として北の方向へ道をとるのです。 前田は磁石(じしゃく)を見てそのことに気づき,急いでいる時でもありました から,エレコークに案内をやめさせました。 アイヌに頼りながらも,いざとなるとアイヌ民族の文化や知恵を信じきれなか ったのです。 そして文明の利器である磁石を頻りにして,どんどんと南東へ進んで行きまし た。その結果一行は,出道のない深い山奥に迷い込むことになってしまいました。  この時,それまで黙って前田の後についていたエレコークが,立ち止まってじ っと周囲の山や小沢の状況を観察すると,何か自信を得たようすで二人の先に立 って歩きはじめました。 沢本も前田も無言で進むエレコークの態度に圧倒されて,そのあとを追いました。  やがて小さな川に達すると,エレコークはその水の匂いをかぎ,ひと口含んで, 利別川(としべつがわ)だ,とつぶやきました。 水の匂いでみどとに川を言いあてたのです。 エレコークの判定に間違いはありませんでした。 その川に沿って下るとやがて足寄(あしょろ)に出,ついに池田に着いて,陳情 の目的を達することができました。 前田たちはエレコークのおかげで陳情の日的を果たしたばかりか,命拾いをさ えしたのです。  野付年に無事帰ってからエレコークは,「前田さんはギシャク(磁石)なんか見 ておせっかいするから心迷いして道に迷ったんだ。おれを道案内にしたなら, だまっておれについて来ればいいじゃないか。人を信じたらすっかりまかせれ ばよい。前田さんはだめだ」  と言って前田を叱ったということです。 その前田駒次は北光社の指導者の一人で,後年野付牛町長,北海道会(今の道議 会)議長を歴任した人物です。                              (菅原政雄)