アイヌの文化(暮らし)

 北海道にアイヌの文化が成立したのは十四世紀ごろからではないか,日本史の 鎌倉時代以後ではなかろうか,といわれています。それにしてもこの文化は,続 縄文文化や擦文文化をになった人々の子孫が育てたものに違いありません。  この人々アイヌは,晋段はコタンと呼ばれる敷戸から数十戸の集落をつくって暮ら していましたが,山には狩猟のための小屋,海岸には漁のための小屋,あるいは 夏の家,冬の家をもっていて,季節的に移動することもありました。 住居はチセといい,チセの中央には炊事と暖房と神をうやまらための大きな炉(ろ) があって,いつも火が燃えていました。 この炉を中心にして人の座る席のきまりがあり,大切なものは部屋の東北側に 設けられた台に置かれるなどのきまりもありました。  コタンの長〈おさ)はコタンコロクルといって,行事をしきり,コタンの秩序をまもり,他 のコタンとの交渉をしたり,コタン全体のためのあらゆることに対処しなければなら ない大切な役目をになっておりました。 また,老人は男も女も尊敬されました。 アイヌは狩猟,魚労,食用植物の採取,そしてわずかでしたが農耕も営みました。 道具には小刀(マキリ),弓,矢,仕掛け弓,鋸(もり),魚矢,打頭棒などがあり,竹, 骨,鉄製の矢じりにはトリカブトという草の毒が塗られました。 アイヌはあらゆるものに神へカムイ)を見いだしました。 草木も動物たちもみな神でした。 クマ送りというアイヌの祭りは,人間世界のクマを殺して,そのもともといるべき神 の国へ送ってやる儀式なのでした。  古代の和人へ本州を中心に住んでいた日本人)もそうだったように,アイヌは文 字を持ちませんでした。 そのかわり豊かな昔話や物語,伝説が口伝えに語りつがれ,うたいつがれまし た。 なかでも少年英雄の物語であるューカラといわれるものは,ギリシアの叙事詩と〈ら べられる程の壮大な口承文芸であるといわれます。  本州から渡ってきた和人の勢力がアイヌ社会に進出し,支配の手を伸ばしてくる と,アイヌの暮らしはひどく圧迫されるようになりました。 アイヌは時には力をもって抵抗しましたが,逆に多くの仲間が殺害され,いっそう 厳しく抑えつけられることになりました。 和人の支配に抵抗してやぶれたシャクシャインの戦いは十七世紀。 クナシリ,メナシへ根室地方)での和人に対する抗議とその無惨な敗北は十八世紀のこ とでした。  今の北見市の近くにもアイヌたちの小さなコタンへ集落)はあったようですが,和人 の身勝手に抵抗する力はありませんでした。 そうしたコタンは,端野町のチュウシコタン,ヌプケシコタン,北見市のへテウコヒ(中の島公園付近) などが知られています。  また,端野町の協和チャシ,北見市豊田の相内チャシが確かめられていますし,南丘 にもチャシらしいものは見られます。  が,決してアイヌの勢力を感じさせるほどのものではありません。 チャシというのは,アイヌが砦(とりで),見張り台,聖地,話し合いの場として,やや高 い丘に作ったものです。  これらのほかにも,わずかですがアイヌの暮らした跡と思われるものが北見市に もあります。    (菅原政雄)